【開催報告】ある台湾人元日本兵の戦争・ソ連(シベリア)抑留体験(2022年8月7日開催)

新型コロナウイルスの感染流行「第7波」がおさまらぬなか、「戦争体験継承プロジェクト」の第1回目がZoomによるオンライン配信形式にて開催されました。今回お話し頂いたのは呉正男(ご・まさお)さん、95歳です。

 

呉さんのプロフィール

1927年日本統治下の台湾で生まれる。13歳の時、留学するために単身東京へ。満16歳(中学校4年)で陸軍特別幹部候補生に志願。重爆撃機の通信士となったのち、朝鮮半島で終戦を迎える。ソ連軍に連行され、中央アジア カザフスタンで約2年の強制労働を強いられる。戦後は信用組合横浜華銀に入社。専務理事を18年、理事長を6年務めたほか、様々な団体の活動を通じて横浜中華街の発展に貢献する。

 

 

◆第1部 呉さんの体験

 

〇台湾での中学受験の失敗と、日本での中学時代

 

呉さんは1927年、日本統治下の台湾、斗六(斗六)郡(現 斗六市)に生まれました。8人きょうだいの長男でした。呉さんへのお父さんの期待は大きく、幼稚園に通い、日本人小学校へ入学。小学生の頃から「日本人の仲間入り」をして育ってきたといいます。

 

しかし台湾人への差別もあり中学入学は叶わず、お父さんからの勧めで1941(昭和16)年、船に乗って日本へわたり、13歳で東京の中学校へ進学しました。

 

当時はアジア・太平洋戦争の非常時であり、呉さんは勉強をすることよりも勤労奉仕や軍事訓練に動員されていくこととなりました。将来は医師になるため学びたかったけれど、戦局が悪化するにつれ、「男なら軍隊に入れ」という風潮が強まっていったそうです。同級生もみな、「硬派」な男ならば予科練、少年飛行兵に志願して、負けそうな日本を助けなきゃいけない、という気持ちになっていきました。

  

〇志願して陸軍水戸航空通信学校へ

 

1944(昭和19)年、16歳になった呉さんは、特別幹部候補生の1期生として陸軍水戸航空通信学校へ入学します。2400人の入校生がおり、300人が呼び出されて学科試験や身体検査を受け、最終的に200人が選ばれ中隊が編成されました。

この200人のうちのひとりとなった呉さんは、挺進滑空飛行第1戦隊(グライダー戦隊)に配属され、機上通信士の勉強をしました。重爆撃機よりも大きいグライダーを飛行機で牽引し、敵地へと送る部隊です。グライダーで歩兵を運び敵地におろすというドイツ軍の戦略に学び、日本の滑空戦隊ができたそうで、全国の大学の航空部にいた学生たちが学徒動員され、100人集められました。

 

グライダーに乗っていた者は戻っては来ません。そこで多くの部隊を作るため、沢山の学生が集められたといいます。軍からは荷物を郵便局から親元、親族の元へ送り返すよう命じられ、呉さんも遺言状のようなものを書いて親族に送りました。しかし12月19日、先に出発した歩兵たちの乗った船が沈没。そのため、グライダーは出発することなく、呉さんは命を落とさずに済んだのでした。

 

〇特攻の瀬戸際、そして捕虜に

 

1945(昭和20)年5月、呉さんたちの部隊は北朝鮮の宣徳(ソンドク)飛行場へ向かいます。そこで搭乗員が集められ、特攻をするかどうかの意識調査を受けたそうです。調査の回答は「志望、熱望、熱烈望」の3つで聞かれ、呉さんは「熱烈望」。後で中隊長に聞いたところ、他の仲間もみな「熱烈望」で、配属の際に「長男は外した」とわかりました。神龍特別攻撃隊桜空挺隊という名前の部隊でした。

 

この頃には、死に対する恐怖感がだんだんと薄れてきて、怖くなって逃げる者はいなかったといいます。8月5日に最後の部隊を見送り、残留部隊は8月15日に玉音放送を聞くことになりましたが、雑音が多いうえに難しい言葉も多く、不明瞭でした。呉さんは、ソ連が戦争を始めたから、もう少し頑張れよという話だと思い、周りの学生たちも、戦争が終わったことをわからずにいました。

 

その後、38度線を越えて南下せよという指令があり、仲間と必死に歩いて移動をします。線路を歩いて南へ向かっていると列車に乗ることができましたが、38度線を目前にして、駅で「元軍人は列から出ろ」と言われ、呉さんを含めた20人がソ連兵に連行されてしまいます。1週間野宿をしながら港へ向かい、港に着くと、戦利品を船に詰め込む作業をさせられました。

 

そして10月、貨物船に乗せられてソ連のカザフスタンへ渡ります。呉さんが乗せられた船には日本の兵隊も乗っており、捕虜になって使役されるということはみな予想がつかず、日本に帰れるのではないかと思っていたといいます。呉さんは疥癬病になって隔離をされるなど、船の環境はひどいものでした。早期に出発した人たちはシベリアで降ろされて、抑留された6万人のうち5万人が冬を越せずに犠牲となったと言われています。

 

〇カザフスタンでの抑留生活

 

 

呉さんたちは23日間船に乗ってカザフスタンに着き、捕虜として抑留され過酷な労働を強いられました。土を掘って幅100mほどある大きな水路をつくり、ダムを造りました。天秤棒でカゴを担ぎ上げて土を運ぶのを繰り返していると、服が破れ、肩にタコができます。電柱を建てて電話線を引く工事や、鉄道線路を敷く作業もしました。盛土をして砂利をのせてレールを敷くのですが、夜間も働かされ体調を崩して、この仕事で死ぬのじゃないか、と思ったこともあったそうです。

 

呉さんたち1600人の捕虜を監督していたのはモンゴル系と思われる兵士たちで、捕虜が死なないよう、零下25度以下になると外での労働をやめるように図らってくれたそうです。しかし収容所の食糧は少なく、いつもひもじい思いをしなければなりませんでした。1600人の捕虜たちは15~20人の班に分かれて様々な現場に送られました。呉さんは班の中で18歳といちばん若く、班長に可愛がってもらえたといいます。

 

〇「あいうえお順」で決まった運命の分かれ道、日本人として船に

 

ソ連全体で60万人が抑留されていたうち、カザフスタンには5万人が抑留されていたと言われていますが、1947年6月、呉さんたち1600人は早期に帰国の準備をすることとなります。なぜこの1600人が選ばれたのか、理由はわからないそうです。再び23日間船に乗りウラジオストクに到着すると、ここに駐留していたソ連の兵士が、捕虜は全員ここに残って働かせる、船には乗せない、と言い出します。カザフスタンから呉さんらを船で連れてきた兵士は、それならカザフスタンにまだ仕事が残っているので戻らせる、と言い、話がまとまりませんでした。結局、半分だけ残し、半分は帰すということになり、あいうえお順で半分が帰国の船に乗れることとなりました。呉さんは中学生の時に「大山正男」になっていたので、あいうえお順の早いほうとなり、無事に船に乗ることができたのでした。

 

呉さんは捕虜になった際、出身を台湾台南州斗六郡と書きましたが、漢字で書いてあるのでソ連兵には台湾人とわからず、日本人としてソ連へ連行されたようだ、と思っていました。

しかし戦後になって、船に乗る際にソ連兵に質問された捕虜名簿を見ると、呉さんは自分で日本人だと名乗り、本籍は茨城県の下宿のおばさんの住所を答えていたことがわかりました。日本人として船に乗ったのです。このときもし台湾人とわかっていたら、中共軍に引き渡されていたのではないか、と呉さんは想像します。ここが人生の大きな別れ道でした。

 1947年7月、復員します。呉さんはすぐに、呉正男として引上げ登録をしました。呉さんは戦後2年での復員でしたが、3年後に日本に戻って来た人たちは台湾に帰されたのです。呉さんは2年だったことが幸いして、日本に残ることができました。

 ◆第2部 戦後の補償と慰霊

 

〇台湾人元日本兵に対する補償の問題

 

呉さんのような台湾人元日本兵は、戦後の補償から漏れてしまうことになります。日中戦争以降に日本軍に従軍した台湾人(軍人・軍属)は20万人以上おり、その15%にあたる3万人以上が死亡しています。旧軍人・軍属に対する補償は、一定期間以上軍人として勤務した人とその遺族に対し、恩給として年間146万円から833万円が支給されますが、年限に満たない人や、障害を負ったり亡くなった人に対しては、「戦傷病者戦没者遺族等救護法」により、本人または遺族に特別の障害年金や遺族年金などが支給され、この特別年金の支給額は、年額74万円から973万円でした。

 

しかし、これらは日本国籍をもつ人しか受けることができず、台湾人元日本兵は、戦後台湾が日本領ではなくなり日本国籍を失ったために、元日本兵が受けられるはずの補償を受けることができないのです。

 

そこで1998年に台湾人元日本兵(軍人・軍属)に対する補償として、遺族と当事者である戦傷病者に対し、申請が認められた場合には一人あたり200万円の特定弔慰金が1回限り支給されることになりましたが、日本人と同じように日本兵として戦っても、こうして補償に著しい差ができてしまったのです。

  

〇シベリア(ソ連)抑留に対する補償の問題

 

シベリア抑留者に対しては、2010年のシベリア特措法に基づき、抑留期間に応じて25万円から150万円が1回限り支給されました。しかしこれも、日本国籍を有する人しか受けることができないものでした。

呉さんが不思議に思うのは、60万人のシベリア抑留者のうち50万人が帰国し、戦後の復興と経済成長に大きく寄与したにも関わらず、なぜ当時、抑留に対する補償が受けられなかったのかということです。呉さんは抑留期間が3年以内のため、もし日本国籍を有していたら受け取れるのは25万円です。あの過酷な抑留に対する補償がなぜ戦後何十年も経って、しかもどうしてこんな僅かな金額なのだろうと、とても納得できるものではありませんでした。

 

〇台湾人元日本兵への慰霊

 

呉さんは十数年来、毎年奥多摩にある台湾人元日本兵の慰霊碑・慰霊塔を訪れ、台湾人日本兵の慰霊をしています。台湾には、日本人を祀って台湾人が建てた廟や慰霊碑があります。けれどなぜ日本人は、3万人もの台湾人戦没者のために誰も慰霊碑を建てることをしないのかと、呉さんはいつも不思議に思うのでした。

 

戦後30年経って、弁護士の人が中心となり、台湾人戦没者のために慰霊碑を建てました。奥多摩湖が台湾にある湖に似ているということで、この地に建てたそうです。慰霊碑の石は台湾から運ばれました。毎年慰霊祭がありましたが、年々メンバーも亡くなってゆき、開催が難しくなりました。しかし数年前に東京タワーの会などいくつかの団体の人たちがこのことを知り、また慰霊祭をしてくれるようになりました。

 

呉さんは、奥多摩に行かずとも、どこでもいいから、どこかの片隅でいいから、慰霊碑を建てて台湾人戦没者を拝んでほしいと思っています。そのための運動もしたことがありますが、実現にはいたりませんでした。

奥多摩にある慰霊碑には、次のように刻まれています。


「台湾出身の戦没者の方々 あなた方が かつて わが国の戦争によって 尊いお命を うしなわれたことを 深く心にきざみ 永久に語り伝えます どうぞ 安らかに永眠してください」

 

台湾出身の、と書かれています。当時、台湾人は日本人とされていた、だから「台湾人」とは書かずに、「台湾出身の方々」となっている、呉さんはそのことを噛みしめています。

 

◆台湾から日本へ留学した若者の感想

 

台湾から千葉大学に留学経験のある侯柏宇さん(26歳)が、呉さんの話を聞いた感想を述べました。

 

侯さん 「お話をお聞きして何度も思ったことは、呉さんが台湾生まれで日本兵として戦い、自分を日本人だと思っているということが印象深かったです。アイデンティティの話で、自分も日本にいる時、自分の少数派としてのアイデンティティについて考えることがありました。最近は中国との争いで色んな戦争の話も出てきて、台湾の若者は何のために闘う、何を守るというのを友達ともよく話していました。やはり現在の台湾の若者たちは自分を台湾人だと考えていて、しかし自分を中国人と考え誇らしく思っている人も少なくはない。いま台湾にいる台湾人は、必ずしも台湾という土地を守ろうとして、中国人になりたくない、という人が100%とは言えないと思う。教育や環境が人の考え方を変えるのだということを強く思いました」

 

呉さんはこれに対し、現在の台湾をめぐる情勢を危惧しながら意見を述べました。

 

呉さん 「自分は大学を進学して横浜華銀に入って働き、専務理事にもなった。いわばエリートコースを歩き、広東人の多かった中華街では差別を受けたことがなかったのは、幸せだったと思う。自分たちの時代は、天皇陛下のために死ぬんだ、天皇陛下万歳で死ぬんだという教育だったけれど、いま台湾の人たちはどんな気持ちで闘うのかと私はいつも思うのだけれど、恐らく誰のためということよりも、自由な台湾の生活を守るために闘うんだということではないかと推測をしている。香港のこともあり、『一緒になりたい中国』ではない。自由を守りたい、ということで闘うしかないのだと思います。中国と一緒になりたいと言う人たちについては、中国に帰国せず台湾にいて、というのは不思議な気もしている。

 

中国は統治しにくい大国になっているのに、また更に土地も増やし、人民も増やそうというのは、私に言わせると欲の深い独裁者であると、困ったものだと思う。常識では台湾侵攻はしないのだろうけれど、独裁者というのは、名声を残すために領土の拡大をと思うのかと。台湾への侵攻そして日本が巻き込まれるのでは、アメリカと中国とが戦争になりはしないかと、なってしまったら原子爆弾の戦争になり世界全滅だと、非常に危惧している。たったひとつの希望は、別の指導者が現れて、台湾侵攻をやめてくれないかと思っている。侯さんはどう思いますか」

 

呉さんの問いかけに、侯さんが答えます。

 

侯さん「非常に複雑な問題だが、中国と台湾は教育も違い、考え方も違う。台湾の若者たちは、台湾は世界のひとつの国で、他の国と変わらず世界に進出できると考えているけれども、中国人は、台湾人は中国人であり、中国人にならなければならないという考えをもっている。マスコミの強い影響もあって無理やりにこうした価値観を強いられているのを、台湾の人たちは嫌がっている。台湾の人たちが守ろうとしているのは、民主と自由です。何かをやりたいときに、自由にやれる。そして選びたい大統領を自由に投票で選ぶ、そういうことをしたい。統治下にされるのは嫌で、自分は台湾のままでいいのではないかと思っています」

 

侯さんと呉さん、現在の台湾をめぐる情勢について、そして自由を守るということについて、世代を超えた69歳差の対話でした。

  

◆参加者の声(一部を紹介)

 

  • 個人の努力や個人の選択ではどうにもならないことが山のようにあったのだとわかった。アイウエオ順で船に乗るだとか、驚くことがあった。
  • 8月15日のあと、始まる物語というのがあると思う。戦争の話というと1945年までの話として聞くことが多いが、その後から今に至るまでの話を聞くことが出来て大変意義深かった。
  • 自分はいま15歳だが、呉さんが13歳で日本に来たこと、学ぶ意志や志願して軍に入るなど、行動力に驚いた。メキシコに住んでいたことがあり、アメリカからの戦争の視点を学んだ。台湾人だけれども日本人として戦争に参加したというのは新しい視点で、非常に勉強になった。
  • 台湾人だと名乗っていたら八路軍によって中国に連行されていただろう、日本人だと名乗ったからソ連だったというのは非常に示唆に富む話だ。

また、日本で軍に志願することについて、台湾のご両親はなんと言っていたのかという質問や、作家の山崎豊子氏の小説が原作のドラマ『不毛地帯』を見てどういう感想をお持ちになったか、などの質問もありました。

  

◆呉さんからのメッセージ

 

呉さんは戦後、新制高校夜間部の4年生に入り、大学に進学します。戦後、台湾に帰らずに日本で大学を出た仲間たちのなかには、1952(昭和27)~1953(昭和28)年頃、新中国建設に参加するという希望を抱いて、中国へわたる人もいました。呉さんも彼らを舞鶴に見送りに行き、自分も来年は行こう、と思っていましたが、あまり良い情報が伝わって来ず、行きませんでした。その後の中国は文化大革命などもあり、大変な情勢となってゆきます。

 

呉さんはそうした激動の時代の中にあった自分の人生を振り返り、こんなメッセージを伝えて下さいました。

 

「自分は幸運な人生だったと思っている。台湾で中学に受からず日本へ来た。日本に来たら戦争で軍に入隊した。すべて悪いほう、悪いほうへきた。飛行機に乗るのも悪いほう。そして出陣せず、生き延びた。ソ連に抑留され、2年で復員した。私の決断ではなかった。私は変な方向へ向かっていくのだけれど、岐路に分かれる時は神様がいつも、幸せな道を与えてくれる。いつも神様に感謝している。幸運な人生だと。まずこうして長生きをして、元気で話が出来ることが幸運で、嬉しいことだと思っています」。

 

 ◆全体を振り返って

 

今回のイベントには50人の方にご参加頂きました。Zoom開催ということもあり、全国から幅広い年代のかたがご参加下さり、ご自身も戦争や平和に関する活動をされている方や、海外から参加して下さったかたもおられました。質疑応答では多くの方から非常に大切な感想、意見をお寄せ頂き、呉さんからの回答もお聞きすることができました。

 

history for peaceの活動は、今年で5年目を迎えます。戦争体験の継承、戦争から平和を考える、ネットを活用した発信の3本柱で活動をしており、現在は「戦争体験継承プロジェクト」として月1回程度、戦争体験者からお話を聴くイベントの開催を目指しています。

 

今回はその第一弾としての開催で、参加者が小グループに分かれる「ブレイクアウトルーム」の機能を使い、参加者の皆さんに感想・意見を共有して頂くことを予定していましたが、時間の都合上割愛となりました。意見交換を楽しみにしていて下さった皆様に、お詫びを申し上げます。コロナ禍におけるイベント開催の手法として、今後も検討、改善を重ねてゆきたいと思います。

  

 

今回の報告は以上です。お話を聞かせて下さった呉正男さん、参加者の皆さん、ありがとうございました。